身近すぎて、つい当然のように使ってしまう醤油。
でも、ある日ふと「これって誰が最初に作ったんだろう?」と気になって調べてみると──予想外の歴史が次々と顔を出します。
「腐ったような液体を舐めてみた勇気」とか、「『くだらない』の語源に醤油が関係している」とか。最初に触れたとき、思わず声が出るほどの驚きがありました。
そんな“意外すぎる醤油の物語”を、今日はじっくり紐解いていきます。
この記事でわかること
- 醤油は「偶然」ではなく“積み重ねの必然”から生まれたこと
- 鎌倉・湯浅で起きた“奇跡の瞬間”の真相
- 英語「Soy」が醤油由来という隠れたグローバル史
醤油の発祥は「偶然」ではなく“必然の積み重ね”だった
古代から平安へと受け継がれてきた発酵食文化の中で、醤油はゆっくりと形を変えていきました。
「鎌倉時代に偶然できた」という話は有名ですが、実はその前から“液体醤油の萌芽”は静かに育っていたのです。この流れを知ると、不思議と納得感がこみ上げてきます。
古代中国の「醤」と日本の「ひ志お」がつないだ下地
醤油の源流をたどると、最初に行き着くのは古代中国の「醤(ジャン)」です。
『周礼』にも記録が残るこの発酵調味料は、肉・魚・穀物などを塩漬けにした“ペースト状の保存食”。特に穀物を原料とした「穀醤」が、後の味噌や醤油の祖先になります。
その技術は飛鳥〜奈良時代に日本へ伝わり、律令制の下で「主醤」という役職が設けられるほど重視されました。当時の“ひ志お”は、今でいうもろみ味噌に近い存在。
この流れが後の醤油誕生の土台になったと考えると、歴史の長さに思わず感心してしまいます。
平安時代にはすでに液体部分を使っていたという事実
平安期の文献『延喜式』には、「滓醤(かすびしお)」など、液体状の副産物を指す言葉が登場します。
つまり当時の人々は、固形のひ志おから“滲み出る液体”の存在に既に気づいていたわけです。
この液体はまだ“主役”ではなかったものの、調味料として利用されていた可能性が高いとされています。
「醤油は鎌倉で突然現れたわけではない」という事実は、歴史の必然性を静かに物語っているようで、どこか感慨深いものがあります。
鎌倉時代の劇的転換 —— “失敗”から生まれた日本初の醤油
鎌倉時代になると、長い時間をかけて積み上がってきた発酵文化の流れが、一気に「液体調味料=醤油」という形に結実します。
この時代の物語には、思わず「そんなことってある?」と驚いてしまうようなドラマが潜んでいます。
覚心が持ち帰った金山寺味噌と、桶にたまった“黒い液体”の発見
鎌倉中期、禅僧・覚心(かくしん)は宋に渡り、径山寺で学んだ「金山寺味噌」の製法を日本へ持ち帰ります。
野菜や麦、大豆などを漬け込むこの味噌は、本来“おかず味噌”として食べる保存食でした。
ところが、湯浅で仕込んでいた味噌の桶の底に、ある日“黒褐色の液体”がにじみ出しているのが見つかります。
当時の常識では「品質を落とす余分な水分」として捨てられるはずのもの。ですが、誰かが指先でそっとすくい、舐めてみた──。
すると、その液体は驚くほど芳醇で、料理に使うと旨味が一気に引き立ったといいます。
この瞬間、私たちが知る「醤油」の原型である“溜まり”が誕生しました。
ほんの小さな気づきと勇気が、日本の食文化を大きく変えたのだと思うと、胸が熱くなります。
湯浅で醤油づくりが定着した地理的必然
偶然の発見が「文化」になるには、周囲の条件が整っている必要があります。湯浅には、その条件が揃っていました。
- 鉄分の少ない軟水
発酵に適しており、澄んだ風味の液体が得られた。 - 紀伊半島の温暖な気候
麹菌がよく働き、発酵が安定した。 - 良港を持つ地理的環境
京都・大阪へ船で送る流通が確立しやすかった。
こうした“地の利”があったからこそ、湯浅は「醤油発祥の地」と呼ばれるまでに発展したのです。
単なる偶然ではなく、必然が積み重なっていたと知ると、どこか深い納得を覚えます。
室町〜江戸で生まれた“意外すぎる進化”
鎌倉で生まれた醤油の萌芽は、室町・安土桃山・江戸と続く時代の中で、一気に“日本の味”として進化していきます。
ここからの物語には、「そんなところまで影響していたの?」と驚くような意外性が詰まっています。
文献に「醤油」という言葉が現れた経緯
「醤油」という表記が歴史資料の中ではっきり登場するのは、室町時代に入ってからのことです。
- 1568年『多聞院日記』
奈良・興福寺の僧侶が記したこの日記に「醤油」の文字が現れる。 - 1597年『易林本節用集』
当時の日常語辞典に「シヤウユ」という読み仮名付きで掲載。
この時代には、味噌から滲み出た液体を使った調味が徐々に“独立した文化”として形を帯び、社会の中に受け入れられ始めていたことがわかります。
言葉が生まれた背景を知ると、醤油の存在感が一段とリアルに迫ってきます。
江戸の巨大都市が“濃口醤油”を作らせた理由
江戸時代、100万人都市へと成長した江戸は、料理の味付けにも大きな変化を求めました。
江戸の人々──特に参勤交代で集まった武士や、土木作業に従事する職人たちは、汗をかく日々を過ごしていたため、塩分が強く、コクのある味を好みました。
さらに、江戸前の魚の生臭さを抑えるためにも、しっかりした香りと色の醤油が求められます。
そのニーズに応えたのが、野田や銚子で作られた「濃口醤油」でした。
小麦の比率を高めることで香ばしい香りを引き出し、強い旨味とキレのある塩味を実現します。
寿司・天ぷら・蕎麦・蒲焼きなど、今も愛される江戸前料理は、濃口醤油なしには語れません。
当時の料理人や職人たちが、「これだよ、これ!」と感じた光景が目に浮かぶようです。
「くだらない」の語源に刻まれた醤油物流史
意外すぎるトリビアとして、多くの人が驚くのが「くだらない」という日本語の語源です。
江戸に送られてくる関西産の醤油は、質が高く人気がありました。
これを「下り醤油(くだりしょうゆ)」と呼びます。
一方、質が悪く「江戸に下ってこない」ものは「下らない」と呼ばれ、それが現代語の「価値がない・つまらない」に変化しました。
つまり、私たちが日常で何気なく使っている言葉には、江戸時代の物流システムと醤油文化が深く刻まれているのです。
初めて知った時は、その意外性に思わず「へぇ…」と声が出ました。
世界に広がった醤油 —— 英語「Soy」に隠された真実
日本の食卓で育まれた醤油は、江戸時代の鎖国下でさえ海を越えていました。
この章では、「まさかそんなところにまで?」と思わず唸ってしまう、醤油のグローバルな広がりを追っていきます。
英語「Soy」は日本語「Shoyu」から生まれた
「Soy」という言葉を聞くと、多くの人が「大豆(Soybean)」を連想しますよね。
しかし実は──その語源は日本語の「醤油(Shoyu)」にあります。
17世紀、日本の醤油はオランダ商館を通じてアジアやヨーロッパへ輸出されていました。
当時のオランダ語では醤油を「Soya」と表記し、それが英語圏に伝わって「Soy」となります。
興味深いのは、西洋では大豆という植物よりも、醤油という加工食品のほうが先に認知されたという点です。
「大豆の名前が“醤油の豆”だった」と知ると、ちょっとした文化的逆転劇のようで驚きがあります。
ヨーロッパ王侯貴族に愛された日本の調味料
出島から運ばれた醤油は、特製の陶器瓶「コンプラ瓶」に詰められて海を渡りました。
ルイ14世の宮廷をはじめ、ヨーロッパの貴族の食卓にも並んだとされています。
当時のヨーロッパには醤油に相当する調味料がなく、その複雑な旨味と香りは“東洋の神秘的なソース”として珍重されました。
肉料理の隠し味として使われたケースもあったようで、遠い異国で日本の味が静かに受け入れられていたのだと思うと、どこか誇らしい気持ちになります。
「醤油 発祥 意外」に関するよくある質問
醤油の歴史を辿っていくと、細かな疑問がいくつも湧いてきます。
ここでは特に多くの人が気にするポイントを、短く・分かりやすくまとめました。
醤油と味噌、歴史的に古いのはどちら?
醤油の元になった「溜まり」は味噌の製造過程から生まれたため、日本国内で現在の形として先に成立したのは味噌です。
なぜ関東と関西で醤油の色が違うの?
関西は素材の色を活かす料理文化が強く、淡口醤油が好まれました。一方、江戸は魚の臭み消しや濃い味付けに対応するため濃口醤油が発達しました。
「くだらない」は本当に醤油の物流が語源なの?
はい。関西から江戸へ下ってくる高級品を「下り物」と呼び、逆に質の悪いものを「下ってこない=下らない」と呼んだことが言葉の由来です。
「溜まり醤油」と普通の醤油は何が違う?
溜まり醤油は大豆主体で旨味が濃く、とろみがあるのが特徴。一般的な醤油は大豆と小麦を併用し、香りと塩味のバランスを重視しています。
英語の「Soy」は本当に醤油由来なの?
本当です。オランダ語「Soya(醤油)」が英語へ入り「Soy」になり、のちに大豆の名称にも使われました。
まとめ
醤油の発祥をたどると、単なる調味料とは思えないほど深い歴史が隠れていることに驚かされます。
古代中国の「醤」から始まり、日本の「ひ志お」、そして鎌倉での“偶然の奇跡”。
さらに江戸の都市文化が濃口醤油を育て、ヨーロッパにまで愛されたという広がりもありました。
いつも当たり前に使っている醤油が、実は何千年もの時間と、数え切れない工夫や偶然に支えられてきた存在だと思うと、食卓の見え方が少し変わるはずです。
今日の食事が、ほんの少し「豊かに」感じられるきっかけになれば嬉しいです。