平安貴族の恋愛を調べはじめた頃、多くの人がまず戸惑うことが多いようです。「顔を見ずに恋が始まる?」「紙や香りで相手を判断?」「結婚の証が“餅”?」――まるで物語の世界のようにも見えますが、当時の人びとにとってはこれが“当たり前のルール”でした。ドラマなどで描かれる世界に驚いた経験がある人であれば、共感できる場面かもしれません。
恋はもっと自由で、感情のままに進むものという印象を持たれがちですが、この「ルールに沿って進む恋愛」は、現代の感覚から見ると大きなカルチャーショックを受ける要素があります。しかし、当時の制度や価値観を調べていくと、それがただ奇妙なのではなく、「家の力」「教養」「政治」が複雑に絡み合った“必然”であったことがわかってきます。
この記事では、当時の恋愛がどのような流れで進み、どのような価値観で判断され、どのような制度に組み込まれていたのかを、順を追って紹介します。ドラマや文学で描かれる幻想ではなく、「平安恋愛のリアル」に触れる手がかりとなるはずです。
この記事でわかること
- 平安貴族の恋愛が「顔ではなくセンス」で判断された理由
- 恋が始まる“5つのステップ”と、翌朝の手紙が最重要とされた背景
- 「三日通い」や「うわなり討ち」など、結婚制度に隠れた本当の目的
平安貴族の恋愛は“ルール”で動く世界
当時の恋愛は、現代のような自由な交際とは異なっていました。家柄や政治的背景が影響を及ぼすため、恋愛は個人の感情だけで進むものではなく、細かな“作法”や“順番”が存在していました。まずは、その根底にある価値観から見ていきます。
顔を見ずに恋が始まる理由と、家が決める恋の枠組み
見えない恋の始まり
平安貴族の社会では、女性は家族以外の男性に素顔を見せることはほとんどありませんでした。御簾や几帳の奥で生活し、他者と直接顔を合わせる機会が限られていたため、恋が始まるきっかけは、御簾越しに見える「袖の色合わせ」「黒髪の美しさ」といった“センス”によって生まれていました。
教養としての美意識
当時の美意識では、衣装の配色や香りの使い方などが、その人の教養や育ちを映すものとされていました。顔立ちの美しさは、現在ほど重視されていなかったという研究もあります。
家が関わる恋愛
また、恋愛は当事者の判断だけで進むわけではなく、女性に仕える女房や親族が情報のやりとりや手紙の取次を担うなど、「家」が大きく関与していました。恋愛は「二人だけの関係」ではなく、「家が見守るプロセス」であったとも言えるでしょう。
平安貴族の恋愛 5つのステップ(流れで理解する)
平安の恋愛は「好きになったら付き合う」というシンプルなものではありません。まず“出会い方”に決まりがあり、“アプローチ”にも作法があり、“訪問”にも条件があります。さらに、そのすべては家の了解のもとで進むという、大きな流れが存在しました。
ステップ全体の概要
ここでは、実際に恋がどのように始まり、どんな段階を経て深まっていくのか、5つのステップとして整理します。
【ステップ0】出会いは“垣間見” — 見るのは顔ではなくセンス
のぞき見る出会い
平安時代の恋のスタートは、いわば「のぞき見」。とはいえ、決して無礼な行為ではなく、当時としては自然な出会い方でした。女性が他の男性に顔を見せない暮らしをしていたため、男性は御簾や几帳の隙間から、そっと“様子”をうかがうしかありません。
評価されたのはセンス
しかし、彼らが見ていたのは「顔立ち」ではありません。袖の色合わせ、黒髪の長さと艶、ほんの少しだけ見える姿勢の美しさ――これらが、その女性の育ちと教養を物語っていました。
周囲の後押し
さらに、女性の女房たちが男性に情報を渡すことも多く、「うちの姫君はこういう方で…」と噂を広めることも。恋は、本人同士だけでなく、周囲の助けで動き出すことも少なくありませんでした。
【ステップ1】恋の始まりは“懸想文” — 和歌・紙・香り・花の総合芸術
懸想文の意味
恋が動き始めると、次に男性が行うのが「懸想文」。いわゆるラブレターです。ただし、平安の懸想文は、現代で言えば「最高級ギフト+アート作品」のようなもの。文章の上手さだけでは到底足りません。
- 和歌の完成度
- 紙の色・質
- 香りの調合
- 季節の花を添える心遣い
返歌の重要性
そして女性からの返歌も同じように重要。女性もまた、自分の教養を示すために、丁寧で美しい返歌を書きました。恋のやり取りそのものが、美意識の世界だったのです。
【ステップ2】夜に訪れる“妻問婚” — 家の了解のもとで進む恋
夜の訪問=認可の証
やり取りが重なり、互いの気持ちが通じると、男性は夜に女性の家を訪れます。これが「妻問婚」です。よく“忍び込む”というイメージがありますが、実際にはそう単純ではありません。
当時の邸宅はしっかり警備されており、女房たちや家族の黙認がなければ、男性は奥の部屋まで辿り着けませんでした。つまり、男性が訪問できた時点で、すでに“家が認めている恋”なのです。
【ステップ3】翌朝の“後朝の文” — 最重要とされた礼節
後朝の文の重み
そして、恋の行方を左右する最大の要素が「後朝の文」。一夜を共にした翌朝に、男性が必ず送らなければならない手紙です。
この一通は、礼儀と誠実さの証。
もし送らなかったり、内容が素っ気なかったりすると――
その瞬間に「礼儀知らず」「誠意のない男」と烙印を押され、関係が終わることすらありました。
恋の命綱
たった一通の手紙が、女性の名誉や家の面目に関わる。だからこそ、男性は細心の注意で和歌を書き、心を込めて送ったのです。後朝の文は、恋の命綱のような存在でした。
平安貴族の結婚ルール — 「三日通い」と“餅の儀式”の謎
恋が深まり、一夜を共にしたあと、平安貴族の関係がどのように「結婚」という形に結びついていくのか。ここが、現代と最も大きく異なるポイントです。
婚姻制度の特徴
平安時代には、婚姻届けも指輪も挙式もありません。その代わりに存在したのが「三日通い」と呼ばれる独自の慣習。そして、それに続く“餅の儀式”です。
この章では、「どうなれば夫婦と見なされたのか」「なぜ餅なのか」「なぜ説が分かれるのか」――そんな疑問にひとつずつ答えていきます。
「三日通い」で結婚成立 — 家同士が認める瞬間
結婚成立の条件
恋が進んでも、まだ“結婚”とは言えません。平安時代の結婚が成立する条件は、男性が女性の家に 三日連続で通うこと。これが「三日通い」です。
三日間に込められた意味
三日間訪問する理由には諸説ありますが、共通しているのは「家族が継続的な訪問を確認する」こと。夜に通う関係は珍しくなかったため、単なる逢瀬と“結婚”を区別するための明確な線引きが必要でした。
三日間の訪問が成立した瞬間、男性は“婿”として、女性の家に迎えられる立場になります。平安の婚姻は、男性が女性の家に通う「妻問婚」が基本だったため、この三日間は双方の家族が関係を認める大切なプロセスでした。
「三日夜の餅」には諸説ある — 噛まない理由と地域差
「三日通い」が終わると、三日目の夜に行われるのが「三日夜の餅」という小さな儀式。ところが、この餅を“誰がどう食べたのか”については、当時の記録に揺らぎがあり、複数の説が残っています。
三日夜の餅に関する主要な3説
- 【説A:婿が食べる】
餅を噛み切らずに食べることで、「二人の縁が切れないように」という願いが込められたという説。 - 【説B:姫君が食べる】
花嫁である姫君が、餅を噛まずに丸ごと食べる習わしがあったという記録も残る。 - 【説C:婿が“食べるふり”をして袖に入れる】
実際には餅を食べず、袖に入れて持ち帰り、親族に配ったという説。結婚の披露として意味があったと考えられる。
象徴としての“噛まない”
いずれも、餅を“噛み切らない”ことに重きが置かれており、「縁が切れないように」という願いが共通して見られます。地域差・家格差によって慣習が違っていたと考えるのが自然です。
公式の披露“露顕” — 初めて家族と対面する場
露顕とは
三日通いと餅の儀式が終わったあと、いよいよ行われるのが「露顕」と呼ばれる披露の場です。ここでようやく、男性は女性の家族――特に舅や姑と“正式に”対面します。
これまでの訪問はすべて夜であり、家族と直接会う機会はありませんでした。そのため、露顕が初対面の場となり、ここで関係が公的に認められます。
制度に組み込まれる瞬間
平安の結婚は、両家が集まる華やかな披露宴ではなく、より静かで儀礼的なもの。しかしその分、家族の承認が重い意味を持ちます。恋が制度に組み込まれ、家の一員として認められる瞬間――それが「露顕」でした。
制度としての平安恋愛 — 一夫多妻と“家”が握る力
ここまで見てきた恋の流れや結婚の慣習は、すべて「家」という存在が大前提になっています。平安時代の恋愛や婚姻は、決して二人だけの感情だけで成り立つものではありませんでした。
制度としての恋愛
むしろ、恋愛は“家の政治戦略の一部”であり、身分・血筋・家格がすべてに影響を及ぼします。この章では、そんな制度的な背景を具体的に見ていきます。
正妻と妾 — 身分が左右する結婚の行方
平安の一夫多妻制
平安時代は一夫多妻制が一般的でした。ただし、誰もが好きに複数の妻を持てたわけではありません。重要なのは、正妻(嫡妻)と妾(めかけ)には、はっきりとした差があったということです。
正妻の条件
正妻になれるのは、家柄や政治的な立場が、夫となる男性と釣り合う、もしくはそれ以上の家だけ。たとえ恋愛がいくら盛り上がっても、家格が見合わなければ、正妻になることは現実的に不可能でした。
逆に言えば、恋愛そのものは比較的自由だったのに、
「どの女性が“正妻”として迎えられるか」
「どの女性が“妾”として扱われるか」
――その選択は家の力関係で決まっていきました。
結婚は政治戦略
たとえば藤原氏のような一族は、娘を天皇に嫁がせ、その子ども(皇子)を支えることで外戚として権力を握りました。つまり、結婚は恋のゴールどころか、“家の未来を左右する政治の一手”だったのです。
恋物語として読むとロマンチックに見える場面も、この視点を知るとまったく違った意味を帯びてきます。
先妻の「正式な抗議」— うわなり討ちの実態
うわなり討ちとは
そして、平安の結婚制度の中でも、ひときわ衝撃的なのが「うわなり討ち」という風習です。
夫が先妻を顧みず、新しい女性(後妻)を迎えたとき、
先妻は“予告したうえで”後妻の家を襲撃できた
というのです。
抗議の形式と内容
これは嫉妬による暴走ではありません。当時の社会において「認められた抗議行動」であり、一定のルールに沿って行われていました。
- 仲間を集めて後妻の家に押しかける
- 家財道具を打ち壊す
- 家屋そのものを破壊することもあった
女性の権利行使としての意義
現代から見れば“過激”に見えるかもしれませんが、平安社会においては、先妻の立場やプライドを守るための、公式な“権利の行使”でした。
うわなり討ちは、平安の結婚がいかに家と政治に支配されていたか――その象徴と言えるでしょう。
ドラマとの比較でわかる“現代とのギャップ”
ここまで、平安の恋愛と結婚が「家」と「制度」を中心に成り立っていたことを見てきました。
この背景を理解すると、現代のドラマで描かれるシーンが、ただの演出ではなく“当時の価値観そのもの”を反映していることがよくわかります。
現代とのギャップ
特に、大河ドラマなどで描かれる「親の介入」「家の圧力」といったテーマは、現代人からすれば驚くほど強烈。でも、平安時代を踏まえれば「むしろ当然」とすら言えるものです。
史実とフィクションの交差点
ここでは、物語と史実を並べて見ながら、当時の恋愛観がどれほど現代とズレていたのかを掘り下げます。
『光る君へ』にも描かれる“家”の介入
親の干渉が常識だった時代
『光る君へ』を見ていると、「こんな親、ありえない!」と感じる場面がたくさん出てきます。なかでも衝撃的なのが、母親が息子の恋愛に深く干渉するシーン。たとえば、天皇の母・詮子が夜中に寝所へ押しかけ、恋人である定子との仲を責める場面は、視聴者の間でも大きな話題になりました。
現代の感覚では到底理解しがたい行動ですが、平安社会ではこれが“普通”でした。
なぜなら、天皇の愛情はそのまま政治のバランスに直結するからです。
母=家の守護者
母である詮子は、息子が誰を愛し、誰を寵愛し、誰を正妻として迎えるのか――その一つ一つが、一族の繁栄や政治の安定を左右すると考えていました。
息子の幸せより、家の存続が優先される世界だったわけです。
物語を読み解く視点の変化
物語をただのフィクションとして楽しむだけでは見えてこない、当時のリアルな価値観。
そこに触れることで、平安時代の恋愛はより立体的に、深く感じられるようになります。
「平安貴族 恋愛 ルール」に関するよくある質問
ここまで平安の恋愛と結婚の流れをたどってきましたが、読んでいるうちに「これはどういうこと?」「結局ここはどう理解すればいいの?」という細かな疑問が浮かんだ方も多いと思います。
気になる疑問を簡潔に解説
この章では、特に多い質問をまとめ、端的に答えていきます。
ドラマや物語の理解にもつながる部分なので、気になるところから読んでみてください。
平安時代の恋愛はなぜ顔を見なかったの?
回答
女性は家族以外の男性に素顔を見せない生活をしていたため、御簾越しにしか姿を見られませんでした。
そのため、袖の色合わせや黒髪の美しさなど、“教養とセンス”が魅力の判断基準になっていました。
懸想文に決まりごとはあったの?
回答
ありました。和歌の出来だけでなく、紙の質、色、香り、添える花など、すべてが評価対象です。
「文章力+美的センス+教養」の総合セットとして捉えられていました。
妻問婚はどんな結婚制度なの?
回答
男性が女性の家に通う形式の婚姻です。
夜に通い、家族や女房たちの黙認が得られて初めて寝所に入れるため、実質的には“家が認めた関係”でした。
三日間続けて通うことで正式な結婚とされました。
「三日夜の餅」に諸説あるのはなぜ?
回答
当時の記録に揺らぎがあり、家格や地域で慣習が異なっていたためです。
婿が食べる説、姫君が食べる説、婿が食べるふりをして持ち帰る説など、複数の伝承が残っています。
うわなり討ちはどんな背景で行われた?
回答
先妻が新たな後妻に対して行う“正式な抗議行動”でした。
予告した上で後妻の家を襲撃し、家財道具を壊す権利が社会的に認められていました。
一夫多妻制の中で、先妻の立場や名誉を保つための制度的役割がありました。
まとめ
平安貴族の恋愛は、現代の感覚とはまったく違う“家と教養の世界”でした。
顔ではなく袖の色合わせや髪の艶で惹かれ、恋の始まりは懸想文という総合芸術。
夜に通う妻問婚は家の了解のもとで行われ、三日通いで結婚が成立する。
さらに、正妻・妾の身分差や、先妻のうわなり討ちといった制度が恋愛の行方を左右していました。
制度と恋の結びつき
こうして流れを追ってみると、平安時代の恋はただの文化ではなく、
家と政治に深く結びついた「社会そのもの」だったことがはっきりと見えてきます。
作品理解が深まる視点
ドラマや文学作品に触れるとき、
こうした背景を知っているだけで物語の解像度は一気に上がります。
恋の情景、家族の反応、登場人物の選択――その一つひとつが、当時の価値観の中でどれほどの意味を持っていたか、自然と読み取れるようになるはずです。
平安の恋愛は、遠い時代の話ではありますが、知れば知るほど人間の感情や行動の普遍性まで垣間見えてきます。
この世界に少しでも興味が深まったのなら、とても嬉しく思います。