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平安貴族の給料日が想像以上にリアルすぎた話

貴族といえば、華やかな装束に広大な邸宅、そして優雅な和歌の世界——。
しかし、その裏側には、現代では想像できない“給料日の現実”がありました。
平安時代の貴族たちは、現金ではなく「米」や「布」「絹」といった“モノ”を給料として受け取っていたのです。

助手の助
助手の助

「お金じゃなくてどうやって生活していたの?」
「誰が、どんなふうに支給していたの?」

そんな素朴な疑問に答えるべく、本記事では平安貴族たちの“給料のもらい方”を、支給の仕組みから格差の実態まで、徹底的に解き明かします。

この記事でわかること
  • 平安貴族がどんな「現物給料(禄)」をもらっていたのか
  • 2月・8月の“給料日”に行われていた支給プロセスの実態
  • 道長クラスと下級貴族の「リアルな格差」と「お金の換金方法」
Contents
  1. 平安貴族の「給料」は“お金”ではなかった
  2. 「給料日」は年2回あった──“季禄”の支給プロセス
  3. 「給料」だけでは暮らせない──平安貴族の3つの財布
  4. 下級貴族のリアル──『今昔物語集』が語る貧乏物語
  5. 平安貴族の「換金テク」──布と米をどう使ったのか
  6. 「平安貴族 給料 もらい方」に関するよくある質問
  7. まとめ

平安貴族の「給料」は“お金”ではなかった

「給料=現金」という常識は、平安時代には通用しませんでした。
当時、国家が発行する貨幣「和同開珎」などは存在していたものの、銅の生産量の減少や国家の事業縮小により、新しい貨幣の発行は停止。
結果、貨幣の信用が失われ、人々は“価値が安定しているもの”——つまり米や布、絹を「お金の代わり」として扱っていたのです。

参考

貴族の給料もその延長線上にあり、国家から支給される報酬はすべて現物。
これを「禄(ろく)」と呼び、律令制によって厳格に規定されていました。

「給料日」と聞いても通帳の残高が増えるわけではなく、自宅の蔵に米俵や絹布が山積みになる——それが、当時の貴族にとっての“支給”の瞬間だったのです。

給料の正体は「禄(ろく)」──現物支給が基本

「禄」とは、国家が官人(=役人・貴族)に与える報酬の総称です。
律令制の下では、官職に就くすべての人が「位階(いかい)」と「官職(かんしょく)」に応じて一定の報酬を得る仕組みが整っていました。

ポイント

平安時代の禄の中身は、主に米・布・絹といった生活必需品。
これらはすべて「現物貨幣」として機能しており、国家は租税として徴収した同じ物資を、再び官人たちの給料として分配していました。

つまり、国家の収入と貴族の給料は同じ“現物経済”で循環していたのです。
このため、現物が不足すれば給料も滞り、律令制そのものが揺らぐこともありました。

禄の種類と支給ルールを整理

参考

種類 内容 支給対象 備考
位禄(いろく) 位階(身分)に応じた基本給 全官人 家柄・功績によって決定
職封(しきふ) 官職ごとに支給される封戸(収税権) 高位の官人 所定地域から直接税を徴収
季禄(きろく) 年2回の臨時支給(ボーナス) 在京官人 春夏・秋冬に支給(2月・8月)
時服(じふく) 季節ごとに天皇から下賜される衣服・布 上級官人中心 儀礼的意味が強い

禄は単なる給与ではなく、身分・職責・忠誠の象徴でもありました。
特に「季禄」は、後述するように“給料日”としての意味を持ち、平安貴族の生活サイクルを決める重要な制度だったのです。

「給料日」は年2回あった──“季禄”の支給プロセス

貴族の給料は毎月ではなく、年に2回。
しかも、その日は現代でいう“ボーナスデー”のような一大イベントでした。
2月と8月、朝廷の蔵から米や布が払い出され、牛車に積まれて都中の貴族邸へと運ばれていきます。
それは、貴族たちの蔵が半年ぶりに満たされる“給料日”の光景でした。

給料日=2月と8月、半年分まとめて支給

参考

『延喜式』には、支給日が明確に記されています。

「春夏二季の禄は二月上旬に給付し、秋冬二季の禄は八月上旬に給付すること」

つまり、平安貴族にとっての給料日は年2回(2月・8月)。
現代の「月給制」とは異なり、半年ごとの「まとめ払い」でした。
一度の支給で蔵いっぱいの米・布・絹が運ばれるため、屋敷の前は牛車の列で埋まるほど。

この“季禄(きろく)”は、仕事の報酬であると同時に、天皇からの恩恵を象徴する“儀礼的な行事”でもありました。

貴族たちはこの日を境に、次の半年間の生活設計を立てていたのです。

誰が支給した? 出納官と蔵人所の役割

給料の支給には、朝廷の専門職たちが関わっていました。
中心となったのが、次の二つの官庁です。

  • 蔵人所(くろうどどころ):宮中の物資を管理する部署で、天皇の命を受け、支給物の手配を行う。
  • 出納(すいとう):現代でいえば経理・会計担当。各官庁に所属し、物品の出納を記録・管理する。

彼らは、貴族ごとの位階・官職を基に支給リストを作成し、国家の蔵(内蔵寮・大蔵省など)から払い出された現物を計算通りに手渡しました。
貴族自身が「蔵に取りに行く」わけではなく、完全に官僚システム化された事務処理だったのです。

どうやって運ばれた? 官の蔵から屋敷の蔵へ──給料日の風景

支給当日になると、出納官の指揮で物資が国家の蔵から次々と搬出されます。
米俵、絹、布、鉄具などを満載した牛車が京の都をゆっくりと進み、各貴族邸の門前へ。
受け取った家人たちは、それを屋敷の「蔵(くら)」に収め、半年分の生活費として管理しました。

ポイント

貴族にとっての“給料日”とは、まさに蔵の扉が開く日。
蔵の中身こそが、その家の経済力を示す“通帳”だったのです。

モノが足りないときの「禄物価法」とは

律令制の終焉が近づくにつれ、国家の税収は滞り、支給物資が不足することも珍しくありませんでした。
そんなときに定められたのが「禄物価法(ろくもつかほう)」です。

注意ポイント

これは、支給予定の布や絹が足りない場合、公式レートで米に換算して支給する制度。
たとえば「布1反=米◯斗」という基準が設けられ、物資の欠品に対応しました。

しかし、重くかさばる米で支給されるのは貴族にとって不便でもあり、
「給料の目減り」や「運搬負担の増加」といった不満も生まれました。
この制度は、律令国家の財政が限界を迎えていたことを象徴しています。

「給料」だけでは暮らせない──平安貴族の3つの財布

半年に一度の「季禄」で生活していたとはいえ、それだけで悠々自適に暮らせたわけではありません。
豪華な衣装、広い屋敷、家人の給料、儀式の費用……。
どれも桁外れの支出がかかるため、国家からの「禄」だけではとても足りませんでした。
そこで、貴族たちは“裏の収入源”を巧みに使い分けていたのです。

国家からの「禄」はあくまで基本給

国家から支給される「禄」は、いわばベースサラリー。
貴族としての身分を維持する最低限の収入であり、決して裕福になれる額ではありませんでした。

参考

たとえば、正六位(最下級貴族クラス)では現代換算で年収約680万円。
しかし、儀式で着る装束や贈答の費用を自腹で賄う必要があり、実際には赤字になることも多かったといいます。

つまり「禄」は、生活の“基盤”ではあっても“安定”とはほど遠いものだったのです。

「荘園」より儲かった「受領(ずりょう)」の仕組み

平安中期の貴族が最も頼りにしたのは、「受領(ずりょう)」と呼ばれる地方官職でした。
これは各国の税を取り仕切るポストで、現代でいえば“地方知事”のような立場。

ポイント

律令制では、受領は朝廷に規定額の税(「京進」)を納めれば、余剰分を自分の収入としてよいとされていました。
そのため、受領たちは地方で厳しい徴税を行い、莫大な利益を得たのです。

この「受領の貪欲」と呼ばれる現象は、貴族社会に大きな格差を生みました。
中流貴族にとって、受領のポストは一世一代の“成り上がりチャンス”でもあったのです。

成功(じょうごう)と賄賂──“官職を買う”金策術

では、どうやってその“儲かるポスト”を手に入れたのか。
そこで登場するのが「成功(じょうごう)」という制度です。

(ポイント)これは、朝廷や寺社に私財を寄付し、その見返りとして希望の官職に任命してもらうという仕組み。
表向きは「寄付」ですが、実質的には“官職の売買”でした。

たとえば、「受領になりたい」中流貴族は、まず借金をしてでも寄付金を工面し、成功を行う。
そして、任命後に得た地方収入でその投資を回収する——。
いわば、現代の“投資的キャリア戦略”のようなものでした。

さらに当時、権力者・藤原道長が受領任命権を握っていたため、
彼に贈り物(賄賂)を渡すことも常態化していました。
「受領に任じられたければ、道長に米や地方産品を献上せよ」——これが暗黙のルールだったのです。

貴族の年収ランキングと格差の実態

参考

身分・官職 代表的人物 年収(現代換算) 備考
摂関(トップ貴族) 藤原道長 約3〜4億円 禄のみ。賄賂・荘園収入含まず
上流貴族(正四位) 大中臣能宣 約4,000万円 主要儀式の担当層
中流貴族(正五位) - 約2,600万円 一般的な官人層
下級貴族(従五位) - 約1,400万円 「貴族」と呼ばれる最低位
下級官人(正六位) - 約680万円 実質的な庶民に近い階層
雑仕(最下層) - 約19万円 官庁の雑務担当

この表を見れば、いかに“貴族社会のヒエラルキー”が経済的にも露骨だったかがわかります。
「貴族=みな豪華」とは大きな誤解であり、
上位数%の華やかさの裏で、多くの下級貴族は“見栄貧乏”に苦しんでいたのです。

下級貴族のリアル──『今昔物語集』が語る貧乏物語

上級貴族が「受領」や「成功」で巨万の富を築く一方で、
下級貴族や官人たちの暮らしは、常に貧しさと紙一重でした。
『今昔物語集』には、そんな“貴族の貧困”を生々しく描いた逸話が残っています。

妻を捨てて就職した侍の話が映す現実

『今昔物語集』巻二十四の第三十六話に登場する、ある下級官人の物語。
彼は仕事がなく、貧しいながらも美しい妻と慎ましく暮らしていました。
そこへ「受領(ずりょう)」に任じられた友人が、「一緒に地方へ行かないか」と誘います。

しかし、地方へ下るには旅費や支度金が必要。
彼は生活費すら尽きていたため、ついに妻を捨て、裕福な女性と再婚し、その持参金をもって赴任の旅に出たのです。
数年後、京へ戻ると妻はすでに亡くなっていた——。

(ポイント)この話は作り話ではなく、当時の現実を映しています。
“就職のために妻を捨てざるを得ない”ほど、下級貴族の経済は逼迫していたのです。

公式の禄では生きられなかった平安社会の裏側

正六位や従五位下といった下級官人の収入は、
儀式用の衣装や贈答品、家人の衣食を賄うとすぐ底をつきました。

注意ポイント

国家からの禄だけでは到底暮らしていけず、彼らは地方赴任や副収入、あるいは裕福な親族からの援助に頼るほかなかったのです。

“平安貴族=優雅”というイメージの裏で、
現実には「飢えに近い貧困」と「見栄の維持」がせめぎ合う、極めて不均衡な社会が広がっていました。

平安貴族の「換金テク」──布と米をどう使ったのか

現物支給された給料(禄)は、ただ蔵に眠らせておくだけではありません。
貴族たちは、その布や米を生活費や贈答、そして商取引に活用していました。
貨幣がほとんど流通しなかった時代に、彼らはいかにして“現金のように”やりくりしていたのでしょうか。

家人への給料として再分配

貴族たちは、多数の使用人・家人を抱えていました。
調度品を整える職人、屋敷を守る武士、身の回りを世話する女房たち。
こうした家人への給与もまた、「米」「布」「絹」といった現物で支払われていました。

ポイント

つまり、国家から“モノでもらう”→家人にも“モノで渡す”。
貴族の屋敷全体がひとつの「ミニ経済圏」として機能していたのです。

「市(いち)」や商人との物々交換で現金化

都には「東市(ひがしのいち)」と「西市(にしのいち)」という市場があり、
ここでは米や布を持ち寄って、他の品物や銭と交換することができました。

参考

例えば——

  • 絹や麻布を銭に換える
  • 米を塩や香料、調度品に替える
  • 商人にまとめて売って現金を得る

といった形で、現物を柔軟に換金していたのです。

また、商人たちは貴族邸にも頻繁に出入りしており、
「布十端と香料を交換」といった屋敷内での直接取引も一般的でした。

「米・布・絹」が貨幣の代わりだった理由

奈良時代に発行された「和同開珎」などの貨幣は、平安中期にはすでに信用を失っていました。
新しい銭が作られず、銅の産出も減り、貨幣価値が安定しなかったためです。

その一方で、米や布、絹は誰にとっても価値が明確で、
腐らず保管でき、全国どこでも通用する——まさに「現物貨幣」でした。

平安時代の貴族たちは、これらを“お金そのもの”として扱う、独自の経済感覚を身につけていたのです。

「平安貴族 給料 もらい方」に関するよくある質問

平安貴族の給料制度には、現代とは異なる仕組みや用語が多く登場します。
ここでは、読者から特によく寄せられる質問に、専門家として簡潔にお答えします。

季禄(きろく)とは何? 現代でいえばどんなボーナス?

(ポイント)季禄とは、平安時代の官人に支給された年2回の臨時手当のことです。
支給時期は2月と8月で、春夏・秋冬の2季分をまとめて受け取る形式でした。
現代でいえば、会社員の「ボーナス」に最も近い制度です。

受領(ずりょう)はどんな仕事? なぜ儲かったの?

受領は、地方の国司(こくし)のトップにあたる役職で、地方の税を管理・徴収する仕事です。
朝廷に決められた税額を納めれば、それ以上に徴収した分を自分の収入にできたため、
地方での取り立てを強化し、大きな利益を得ることができました。

成功(じょうごう)は賄賂と同じ?

成功は、官職を得るために私財を朝廷へ寄付する制度で、表向きは「奉仕」でした。
しかし実態は、寄付の見返りとしてポストを得る売官行為に近く
特に受領のような“儲かる職”では、ほぼ賄賂に等しい運用が行われていました。

藤原道長の年収はいくらだった?

藤原道長クラスの摂関は、国家からの正式な禄だけでも約3〜4億円(現代換算)に相当します。
さらに、受領任命の際に贈られる「賄賂」や、荘園収入を含めると、
それを大きく上回る財力を持っていました。

布や米はどうやってお金に換えたの?

貴族たちは、屋敷に来る商人との直接取引や、
都の「東市・西市」での物々交換によって換金していました。
布や絹は価値が安定しており、どこでも通用する“現物貨幣”として機能していたのです。

まとめ

平安貴族の「給料」は、私たちが想像する“お金”ではなく、
米・布・絹といった現物そのものでした。
彼らにとっての“給料日”は、通帳の数字が増える日ではなく、
屋敷の蔵が半年ぶりに満たされる日だったのです。

しかし、その現物給料だけでは生活は成り立たず、
多くの貴族が「受領」や「成功」といった制度を通じて、裏の収入源を求めました。
そして、藤原道長のようにその利権を掌握した者こそが、
平安の頂点に立ったのです。

「優雅な平安貴族」というイメージの裏には、
現物を抱え、格差に苦しみながらもしたたかに生き抜いた人々の現実がありました。
貨幣がまだ未成熟だった時代、
彼らは“モノで稼ぎ、モノで生きる”という独自の経済の中で生きていたのです。

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