「平賀源内が“土用の丑の日にうなぎを売り出した”」──この話、学校でもテレビでも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。けれど最近、「あれって実は嘘らしい」という声を見かけて、驚いた人も多いはずです。長年信じられてきた“日本最古のコピーライティング”の物語は、果たして本当なのか。この記事では、その真偽を徹底的に検証します。
この記事でわかること
- 「平賀源内=うなぎ」説が“嘘”とされる理由
- “本当の起源”とされる3つの代替説
- なぜ“嘘”のほうが真実よりも広まったのか
結論──「平賀源内=うなぎ」説は歴史的な“嘘”だった
「平賀源内がうなぎを広めた」という話を否定する最大の根拠は、江戸時代の史料にその記録が一切ないという事実です。加えて、この説が登場したのは、源内の死から130年以上後の大正2年(1913年)。つまり、「平賀源内説」は後世の創作である可能性が極めて高いのです。
江戸時代に証拠なし、大正2年に初登場した“後付け神話”
もし江戸の天才・平賀源内が仕掛けた「うなぎの広告キャンペーン」が実際にあったなら、『明和誌』や『東都歳事記』などの歳時記に記録が残るはずです。ところが、これらの文献には「土用の丑の日」もうなぎも登場しません。
さらに、初めて“源内とうなぎ”の話が出てくるのは、大正2年の『神田の伝説』という書物。源内が亡くなってから133年も後のことでした。つまりこの話は「江戸の史実」ではなく、「大正の創作」と考える方が自然なのです。
「夏にうなぎは売れなかった」という前提が崩れる『万葉集』の存在
源内説は「夏にうなぎが売れなかったから、宣伝で売ろうとした」という前提で成り立っています。ところが、奈良時代の『万葉集』には、大伴家持が友人に「夏痩せにはうなぎが良い」と勧める歌が残っています。
つまり、「夏にうなぎを食べる」文化は源内の1000年前から存在していたのです。平賀源内が作った“新しい習慣”ではなく、古代から続く日本人の知恵だったといえます。
私たちが信じてきた「平賀源内説」とは何か
前章で、「平賀源内=うなぎ」説が後世の創作である可能性が高いことを見てきました。では、そもそも私たちが知る“あの話”とは、どんなストーリーだったのでしょうか。ここでは、多くの人が信じてきた通説の流れと、その“魅力”を整理します。
天才発明家・源内が仕掛けた“土用の丑の日キャンペーン”という物語
一般的な物語はこうです。
江戸時代、夏になるとうなぎ屋が閑古鳥。脂が落ちて味も落ち、誰も食べたがらない。困った店主が平賀源内に相談すると、源内は「“本日、土用の丑の日”と書いた張り紙を出しなさい」と提案した──というものです。
「丑の日に“う”の付く食べ物を食べると夏バテしない」という民間伝承を利用した、見事なキャッチコピー。結果、店は大繁盛し、この風習が全国に広まったという“成功物語”です。
この話が広く浸透したのは、単に面白いからではありません。平賀源内という人物の“天才的なイメージ”と完璧に合致していたからです。彼は「エレキテル」や「火浣布」などの発明で知られ、学者・芸術家・作家としても活躍した“江戸のマルチタレント”。「0から1を生み出す人」という印象が強かったため、「うなぎ屋を救った広告の天才」という設定に、誰もが納得してしまったのです。
なぜこの話が「平賀源内らしい」と感じられるのか──神話化の心理構造
多くの読者が「平賀源内説」を信じて疑わなかった理由は、事実よりも“物語としての気持ちよさ”にあります。
人は、複雑な文化的背景よりも、「一人の天才が機転で社会を変えた」という単純でドラマチックなストーリーに心を奪われやすい。
「平賀源内ならやりそうだ」「そういう発想を持っていたに違いない」──そうした“納得感”が、証拠の欠如を埋めてしまったのです。
この章で描いた通説は、いわば「神話化された源内像」。次章では、その神話を覆す“3つの決定的根拠”を見ていきましょう。
平賀源内説を否定する3つの決定的根拠
前章で触れた「平賀源内=うなぎ」説は、多くの人が“信じたい物語”として定着しました。しかし、歴史資料を丁寧にたどると、この説には決定的な欠陥が3つあります。ここでは、その「不在の証拠」と「時代の矛盾」を整理します。
江戸時代の文献には一切記述がない(『明和誌』『東都歳事記』)
平賀源内が生きていた18世紀の江戸では、祭りや食文化、風俗を克明に記録した書物が多数存在します。たとえば『明和誌』や『東都歳事記』などは、当時の流行を事細かに記した貴重な史料です。
しかし、そこには「土用の丑の日にうなぎを食べる」という記述が一切ありません。もし本当に源内が仕掛けた“うなぎキャンペーン”が江戸中を席巻していたなら、文人や記録者たちがその出来事を完全に無視するはずがないのです。
この「書かれていない」という事実こそ、もっとも強力な“反証”といえるでしょう。
初出は大正2年『神田の伝説』──130年後の創作だった
次に決定的なのが、この説が大正2年(1913年)に初めて文献に登場するという事実です。平賀源内が亡くなったのは1779年。つまり、133年もの空白期間が存在します。
この時期、日本では「江戸の天才たち」を再評価する風潮がありました。そんな中で、“江戸の発明家・平賀源内”を再び輝かせるために、「うなぎの販促を考えた天才コピーライター」という“近代的な英雄像”が作られたと考えられます。
要するに、源内説は江戸の史実ではなく、大正時代に生まれた“創作された郷土伝説”だったのです。
『万葉集』に見る「夏のうなぎ文化」──千年越しの反証
そして何よりも致命的なのが、『万葉集』の存在です。奈良時代の歌人・大伴家持が詠んだ「石麻呂に 吾物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)取り食せ」という一首。
この歌は、平賀源内より1000年も前に「夏にうなぎを食べる文化」が存在したことを明確に示しています。
つまり、源内が“夏に売れないうなぎを売るために考えた”という大前提そのものが崩れるのです。
うなぎは、源内の発明品ではなく、古代から続く「夏バテ対策の知恵」だった。ここに、通説を完全に覆す決定的な証拠が揃うのです。
「土用の丑の日」本当の起源はどこにあるのか
ここまでで「平賀源内説」が俗説であることが明らかになりました。では実際に、「土用の丑の日にうなぎを食べる」習慣はどこから生まれたのでしょうか?
歴史をひも解くと、いくつかの興味深い説が見えてきます。それぞれの背景と信ぴょう性を整理してみましょう。
春木屋善兵衛説──腐らなかった“丑の日のうなぎ”伝承
この説は、江戸時代の文政年間(1818〜1831年ごろ)に登場します。あるうなぎ屋・春木屋善兵衛が、屋敷からの大量注文に応えるため、うなぎを「子の日・丑の日・寅の日」に分けて仕込みました。
すると、“丑の日に仕込んだうなぎだけが腐らなかった”という逸話が生まれたというのです。
これをきっかけに、「丑の日に作ったうなぎは縁起が良い」「腐らない」との言い伝えが広がり、やがて“丑の日にうなぎを食べる”習慣が定着したとされます。
ただし、この話を裏付ける一次史料はなく、信憑性は限定的です。とはいえ、江戸庶民の感覚として“体験的な縁起”を重んじた点にリアリティがあります。
「う」の字伝承説──最有力!“う”の付く食べ物の民俗信仰
最も有力とされるのがこの説です。古くから日本では「丑の日に“う”の付くものを食べると夏バテしない」という言い伝えがありました。たとえば「うどん」「うめぼし」「うり」などがその代表格です。
そこに、「うなぎ=“う”が付く」「栄養豊富で夏バテ防止にも最適」という2つの条件が重なり、自然と“丑の日=うなぎ”が結び付いたと考えられます。
さらに『万葉集』の時代から「夏痩せにうなぎが効く」とされていたことを踏まえると、この説は民俗学的にも最も筋が通っています。
虚空蔵菩薩説──“食べてはいけない日”が逆転した説
一方で、ややマニアックな説も存在します。それが「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)説」です。かつてうなぎは虚空蔵菩薩の使いとされ、「丑の日(菩薩の縁日)には食べてはいけない」と信じられていました。
しかし、その禁忌によって“丑の日はうなぎが売れ残る→値下がりする→庶民が買って食べるようになる”という流れが生まれ、やがて逆に“丑の日に食べる日”へと転化した、という興味深い解釈です。
信ぴょう性は低いものの、宗教的な禁忌と民衆の生活が交錯した“信仰の裏返し”としての面白さがあります。
起源説の比較一覧
起源説の比較一覧
| 説の名称 | 時代 | 主張する起源 | 信憑性(史料的根拠) |
|---|---|---|---|
| 平賀源内説 | 江戸時代(1770年代) | 「本日土用の丑の日」のコピーを発明 | 低(江戸史料に一切記述なし。大正時代の創作) |
| 春木屋善兵衛説 | 江戸時代(文政年間) | “丑の日に仕込んだうなぎが腐らなかった”伝承 | 低(裏付け史料なし) |
| 「う」の字伝承説 | 不明(古来) | 丑の日に“う”の付くものを食べる風習 | 高(民間信仰・言い伝え多数) |
| 万葉集(大伴家持)説 | 奈良時代(8世紀) | 夏痩せ防止としてうなぎを食べる文化 | 高(文献的裏付けあり) |
この表からも分かるように、平賀源内説は時代的にも信頼性の面でも最も弱く、「“う”の字伝承説」+「万葉集説」こそが真の起源といえるでしょう。
嘘が真実に勝った理由──「平賀源内神話」の引力
ここまでで、史実としては「平賀源内説」が成り立たないことが明確になりました。では、なぜこの“嘘”が100年以上も生き延び、今なお多くのメディアや学校で語られているのでしょうか。答えは、人々が「天才・平賀源内」という物語を信じたかったからです。
“天才”というイメージが創作を正当化した
平賀源内は、江戸時代きってのマルチクリエイターでした。エレキテルの復元、火浣布(燃えない布)の発明、西洋画の導入、浄瑠璃作家としての活動──そのどれもが、当時としては常識破りの挑戦です。
だからこそ、人々は「源内ならそんな奇抜な発想をしてもおかしくない」と直感的に思ってしまう。
この“人物像への納得感”が、「うなぎ広告の仕掛人」という根拠のない話にリアリティを与えたのです。
「コピーライターの始祖」としての再評価ブーム(大正〜昭和)
「源内=うなぎ」説が誕生した大正時代は、広告産業が急速に発展していた時期です。
明治から大正にかけて“宣伝”という言葉が定着し、「広告の原点」を求める空気が生まれていました。
そんな時代に、「江戸時代にもうコピーライティングをやっていた天才がいた」と紹介すれば、これほどピッタリなヒーローはいません。
つまりこの説は、大正時代のマーケティング文化が生んだ“自己投影的な神話”だったのです。
文化は嘘から生まれる──人々が求めた“物語の快感”
歴史にはしばしば、真実よりも“語りたくなる物語”が勝つ瞬間があります。
「平賀源内=コピーライター」という物語は、嘘であってもワクワクする。江戸の天才が時代を超えて広告を生み出した──そう思うだけで、日本人の創造力や発想の自由さを象徴してくれるからです。
結局、人々は「史実」よりも「信じたいロマン」を選んだのです。
つまり、「嘘」は“面白いから”ではなく、“気持ちいいから”広まった。そこにこそ、「平賀源内神話」が消えない理由があります。
「平賀源内 うなぎ 嘘」に関するよくある質問
これまでの内容を踏まえ、読者から特によく寄せられる疑問をまとめました。歴史的な背景や文化的な意味を、できるだけシンプルに解説します。
平賀源内って結局どんな功績がある人?
平賀源内は、「エレキテル(静電気発生装置)」の復元で知られる江戸の発明家です。
そのほかにも、燃えない布「火浣布(かかんぷ)」の開発、西洋画の導入、鉱山開発、浄瑠璃作家など、多才すぎるほどの活動をしていました。
ただし、うなぎの習慣とは無関係で、彼の才能は主に科学と芸術の分野で発揮されていたといえます。
「土用」って季節のどの時期を指すの?
「土用(どよう)」とは、立春・立夏・立秋・立冬の直前、約18日間の「季節の変わり目」のことです。
年に4回ありますが、最も有名なのが夏の土用。暑さで体調を崩しやすいため、古くから「滋養のある食べ物を摂る期間」とされてきました。
うなぎの旬は本当はいつ?
天然のうなぎは、冬眠に備えて栄養を蓄える「秋から冬」が旬です。脂がのり、最も味わい深くなります。
夏に食べる習慣は、「スタミナをつける」という意味合いが強い文化的風習で、現在は養殖技術の発達により一年中食べられるようになりました。
「平賀源内説」を使ううなぎ屋の宣伝は問題ないの?
「史実」としては誤りですが、「文化を象徴する神話」として扱う分には問題ありません。
むしろ、「平賀源内が広めたという話は実は大正時代の創作」と添えることで、知的で誠実な印象を与えることができます。
現代では、歴史を正確に伝えながらも“物語の魅力”を活かすことが大切です。
どうして大正時代にこの話が作られたの?
当時、日本では広告やコピー文化が盛り上がりを見せていました。「広告の始祖」を探す中で、“江戸の天才・平賀源内”という存在が都合よく結び付けられたのです。
つまり、源内説は「江戸を再評価したい近代の人々が生み出した物語」であり、時代の空気が作った“文化的発明”だったといえます。
まとめ
「平賀源内=うなぎ」説は、今も多くの人に信じられている“日本の夏の定番ストーリー”ですが、史実としては大正時代に作られた後付けの神話でした。
江戸時代の史料には一切登場せず、『神田の伝説』(1913年)が初出という事実が、それを裏付けています。
実際の起源は、もっと地味で、もっと人間らしいものです。
「“う”の付く食べ物を食べると夏バテしない」という民間信仰と、「うなぎは夏痩せに効く」という古代からの知恵。この二つが自然に重なり合い、今の「土用の丑の日」の風習ができあがったのです。
そして何より興味深いのは、“嘘”であっても人々がそれを信じ、語り継いできた理由です。
「平賀源内ならやりそうだ」「あの天才の物語にしたい」──そんな思いが、100年を超えて文化を支え続けてきました。
つまり、この神話は「事実」ではなく「日本人の想像力」そのものなのです。
“真実”を知った上で“物語”を楽しむ。――それこそが、文化を深く味わう大人の知識です。