歴史系

平安貴族のメイクを初めて知った日、衝撃で声が出なかった話。

正直、最初に「平安貴族のメイク」を目にすると、多くの人が「あ、これは想像以上にやばい…」と驚きを隠せないかもしれません。白すぎる肌、丸い“まろ眉”、黒く塗りつぶされた歯。しかも、その背景には毒・痛み・臭い・重労働という四拍子が潜んでいました。
SNS上でも「白粉が鉛と水銀って怖すぎ」「全部抜くとか痛すぎる」といった反応が見られますが、当時の資料を読み解くと納得せざるを得ません。美のためにここまで追求していた平安時代の人々の執念には、一定の尊敬の念を抱く人もいるでしょう。

注目ポイント

ただし、驚きや恐怖の印象だけでは本質を見落としてしまいます。

なぜ当時の人々は、これほどの手間や痛みを伴う化粧を「美しい」と感じたのでしょうか?

そこには、現代とはまったく異なる価値観と生活環境が存在していました。

この記事でわかること

  • 平安貴族のメイクが“奇妙に見える本当の理由”
  • 白粉・引眉・お歯黒・垂髪、それぞれに隠された「やばい裏側」
  • 現代人とはまったく異なる、平安時代の美意識とその背景

平安貴族のメイクが“やばい”と言われる理由を一言でまとめると?

多くの読者が最初に抱く「なんでこうなるの?」という疑問。ここでは、その“答え”を最初にまとめておきます。この後の白粉・引眉・お歯黒・垂髪の解説がより理解しやすくなるはずです。

現代人が感じる「やばい」は“毒・痛み・臭い・労力”の四拍子

見た目以上の衝撃

平安貴族のメイクが印象的なのは、「見慣れないから」だけではありません。
実際に当時行われていた化粧の実態を整理すると、次の4点に集約されます。

  • 毒(白粉の鉛・水銀)
    白く美しい肌を作るために使われた白粉には、鉛白(水酸化鉛)や軽粉(水銀の化合物)が含まれていました。現代の衛生基準で考えると、皮膚への負担や健康リスクがあったと考えられます。
  • 痛み(眉毛を抜き続ける引眉)
    眉を剃るのではなく「すべて抜く」という方法が一般的でした。しかも、当時の毛抜きは現在のように高性能ではなく、強い痛みを伴っていた可能性があります。
  • 臭い(お歯黒の塗料)
    鉄漿(かね)を温めると強烈な酸っぱい臭いが発生し、夫が起きる前に塗り終えるのが礼儀とされていました。日常的に行うには、相当な忍耐力が必要だったでしょう。
  • 労力(超ロングヘア〈垂髪〉の維持)
    足元まで届く長さの髪を保つには、複数の侍女の協力が不可欠でした。日々の手入れも容易ではなく、時間と手間を要する作業だったことは間違いありません。

当時の美意識

「高貴であるほど、手間と痛みを引き受ける覚悟を持つ」
という価値観に基づいていたといえます。


白粉:白く美しく、しかし有害な成分も

白く美しい肌を作るために使われた白粉には、鉛白(水酸化鉛)軽粉(水銀の化合物)が含まれていました。
現代の基準で考えれば、皮膚への負担が大きかったのは間違いありません。

引眉:すべて抜くという苦行

眉を剃るのではなく「全て抜く」。しかも、当時の毛抜きは今ほど性能が良くなかったため、痛みは相当なものだったと考えられます。

お歯黒:見た目の美と強烈な臭気

鉄漿(かね)を温めると強烈な酸っぱい臭気を放ち、夫が起きる前に塗り終えるのが礼儀とされていました。
化粧というより、生活作法に近い一面もあったようです。

垂髪:髪の長さは権威の象徴

足元まで届く長さの髪を保つには、侍女の手が欠かせず、日常的な手入れも大仕事でした。
髪の長さは身分や気品を象徴する重要な要素とされていたのです。

結論:美しさとは、苦しみと努力の象徴

つまり、平安時代の美は、
「高貴であるほど、手間と痛みを引き受ける覚悟を持つ」
という価値観に根ざしていたわけです。

白粉(おしろい) ―「美」を支えたのは、まさかの“猛毒”

さきほど触れた「毒」の代表が、この白粉です。
平安時代の女性たちが大切にしていた“白い肌”は、憧れの象徴である一方、現代の感覚では過酷ともいえる方法で作られていました。ここからは、その背景と実態を丁寧に見ていきます。

白い肌が「高貴さの証」だった理由

背景にあったのは環境と文化

当時の住まいである寝殿造は、現代の住宅に比べて非常に暗く、自然光がほとんど入りません。
そんな薄暗い室内では、ろうそくの灯に照らされて浮かび上がる白い顔が、強い存在感を放っていたと考えられています。

白=労働と無縁の象徴

白い肌は「日焼けしない=外で働かない」ことを示すもので、労働とは無縁な高貴な身分を象徴していました。

中国文化の影響も

楊貴妃のような白い肌の美女が理想とされた中国文化の影響もあり、「美=白」という価値観が日本にも深く浸透しました。

展示資料や再現人形などからも、薄暗い空間で白粉を塗った顔が強い印象を与えることが確認されており、当時の人々が美しいと感じた理由がうかがえます。

鉛や水銀を塗り重ねる“危険すぎる日常”

使用された成分

当時もっとも一般的に使用されていた白粉には、以下のような成分が含まれていました:

  • 鉛白(鉛を主成分とする顔料)
  • 軽粉(水銀化合物を含む粉)

深刻な健康リスク

これらの成分を日常的に使用することで、皮膚炎・ただれ・慢性的な肌荒れが発生し、それを隠すためにさらに白粉を厚く塗るという悪循環が生じていた可能性があります。

乳幼児への影響

母親の化粧に含まれる重金属が、乳幼児の健康に悪影響を及ぼしたという見解もあり、当時の人々は気づかぬまま大きなリスクを背負っていたとされます。

科学的知識の限界

当時は科学的な知識が未発達であったため、こうした危険性を認識することは難しかったと考えられます。

それでも追い求めた美

それでもなお、白粉を塗り続けた背景には、「美しくありたい」という共通の願望が強くあったことがうかがえます。

引眉(ひきまゆ) ― 美のために「感情」を消すデザイン

白粉の“白”で土台をつくったあと、顔の印象を決定づける要素が「眉」。
平安時代の貴族たちは、この眉にこそ“気品”を宿すと考え、現代の視点では大胆ともいえる手法を用いていました。

ここからは、なぜ眉を抜いてまで“まろ眉”を描いたのか、その背景と実態に迫ります。

全ての眉を抜いて“まろ眉”を描いた理由

気品とは“感情を隠すこと”

当時の美意識では「感情を表に出さない」ことが最上の気品とされていました。
眉は感情によってすぐに形が変わるため、感情の動きが見えやすいパーツとされていたのです。

まろ眉=抽象的な静のデザイン

本来の眉をすべて抜き、額の高い位置に感情とは無関係な“まろ眉”を描くことで、表情を排除した静的な顔立ちを実現していました。

文学にも見る価値観

御簾や扇で顔を隠す文化との親和性も高く、静的で抽象的な顔のデザインが美の理想とされました。
平安文学では「しとやか」「やさしげ」といった表現が好まれ、動かない顔の美しさが描かれています。

継続的な激痛がつきまとう“地味に過酷な作業”

眉を剃らずに抜く

眉は剃るのではなく、すべて抜く必要がありました。
繰り返し抜き続けることで完全になくすという作業が求められていたのです。

貴重だった“よく抜ける毛抜き”

『枕草子』には「毛のよく抜くる銀の毛抜き」が登場し、性能のよい毛抜きが貴重だったことが記録されています。

多くの女性が感じたであろう苦痛

性能の低い毛抜きで、眉を1本ずつ毎日抜くという作業を日課にしていた女性も多かったと考えられます。

実は機能面でもデメリット

眉を失うと、汗が目に入りやすくなるといった日常生活上の不便もあったとされます。

価値観が支えた美意識

それでもこのスタイルを維持し続けたのは、当時の「美」と「気品」に対する価値観の強さを表しています。

お歯黒(おはぐろ) ― 美と実利の裏で漂う“強烈な臭い”

白粉や引眉で顔全体を整えたあと、最後に「口元」を仕上げるのがこのお歯黒。
写真やイラストで見るとインパクトの強い見た目が印象的ですが、当時の実情においては、見た目以上ににおいと作業の大変さが大きな負担だったようです。

ここでは、なぜ歯を黒く染めたのか、そしてどのような手間や背景があったのかを詳しく解説します。

なぜ歯を黒くすると美しく見えたのか

室内で白い歯は目立ちすぎた

平安時代の薄暗い室内では、白粉で白くした顔と黒髪の中で歯だけが白く浮いてしまい、鋭い牙のように目立つとされていました。

黒い歯で整う顔のバランス

お歯黒によって歯を黒く染めることで光の反射を抑え、
口元の印象を柔らかく整え、顔全体のバランスを保っていたと考えられます。

白粉の白、紅の赤、その中間にある黒い歯。
このコントラストが上品さと気品の象徴とされていました。

成人・既婚の証

お歯黒は、既婚女性や成人の通過儀礼としての側面もあり、
社会的な成熟や地位を示す役割も果たしていました。

温めると強烈な悪臭…“美の儀式は鼻への拷問”

鉄漿のにおいが強烈

当時使用されていた鉄漿(かね)は、鉄と酢を反応させて作る液体で、
温めると酸っぱい悪臭が一気に立ちこめました。

「夫が起きる前に済ませるもの」と記録されるほど、
臭いへの配慮が求められていたようです。

健康面での実利

鉄漿には五倍子由来のタンニンが含まれ、鉄と結びついて歯をコーティングし、虫歯予防にも効果を発揮しました。

合理的だが過酷だった文化

お歯黒は「臭いが強いが健康に良い」
——美と実利を兼ね備えた化粧文化でした。

日々の苦労が物語る美への覚悟

このような悪臭に耐えながら美を保ち続けた平安女性たちからは、
当時の美意識への深いこだわりが感じられます。

垂髪(すべらかし) ―「美」の維持にかかる“重労働”

ここまで紹介した白粉・引眉・お歯黒はいずれも手間や痛みが伴うものでした。
そして、平安時代の美の象徴として最も重視されたのが「髪」。
このセクションでは、当時の女性たちがどれほどの労力をかけて垂髪を維持していたのか、その実情を見ていきます。

なぜ“超ロングヘア”が最上の美とされたのか

髪=身体の名刺

平安時代において、女性の「髪」は顔の美しさ以上に重視されていたとされます。
黒く、長く、豊かな髪は高貴さを象徴する“身体の名刺”のような存在でした。

動かない生活だからこそ保てた

屋内で過ごす時間が長く、外での活動が少なかった平安女性は、
足元に届くほどの長髪でも生活上の支障が少なかったと考えられます。

髪の手入れ=身分の象徴

手入れには時間と人手が必要であり、長い髪を維持できる=人手を雇える身分の象徴でもありました。

資料館などで再現された垂髪は、その存在感が非常に大きく、
動くたびに滑らかに揺れる様子が「髪こそ命」と言われた価値観を象徴しています。

侍女総動員・年数回の洗髪…驚異のメンテナンス

毎日のブラッシングも一苦労

自分ひとりでの手入れはほぼ不可能。
毎日のブラッシングには複数の侍女が必要だったと記録されています。

洗髪は年に数回

洗髪は年に数回のみの一大イベント。
日常的には「ゆるす」と呼ばれる米のとぎ汁で拭き取り、汚れや皮脂を落としていました。

夜の髪箱ルーティン

夜には髪が絡まったり折れたりしないよう、
専用の「髪箱」に丁寧に整えて収める必要がありました。

髪型というより“美のプロジェクト”

垂髪は単なる髪型ではなく、時間・体力・人手というリソースを費やし続ける「美のプロジェクト」として機能していました。

生活の中心にあった“髪”

日々の生活が髪を中心に回っていたことからも、
平安時代における美意識の深さと徹底ぶりがうかがえます。

実は男性貴族も同じメイクをしていたという衝撃

ここまでの内容から、「これほど大変な化粧は女性だけのものだったのでは」と想像する人も多いかもしれません。
しかし、平安時代の化粧文化には男女の区別がほとんどなかったとされ、特に身分の高い男性ほど積極的に化粧を行っていた記録が残されています。

このセクションでは、その背景と理由を整理し、当時の美意識がいかに現代と異なっていたかを明らかにしていきます。

「高貴さ」を示す“ユニフォーム”としてのメイク文化

メイク=高貴さの証

平安時代の化粧は、「女性らしさ」の演出ではなく、身分や文化的素養を表す象徴として用いられていました。

白粉=「労働と無縁な身分」
引眉=「感情を抑えた気品」
お歯黒=「成熟と教養の証」

女性だけじゃなかった

これらの化粧は女性だけでなく男性貴族にも共通して行われていたと記録されています。

殿上人もメイクしていた

白粉を丁寧に塗り、点のような“殿上眉”を描き、お歯黒で歯を染める男性もいたとされています。

美ではなく“文化的洗練”の象徴

平安時代の化粧は「美しさ」ではなく「身分と文化的洗練」を示す手段でした。

価値観のギャップが“やばさ”の正体

現代とまったく異なるこの価値観こそが、
当時の化粧文化を一層特異に感じさせる要因となっています。

「平安貴族 メイク やばい」に関するよくある質問

ここまで読んできて、多くの方が感じる「次の疑問」をまとめました。
白粉の毒性、お歯黒の臭い、眉を抜く痛み、男性の化粧、そして文化が廃れた時期――どれも“知りたくなる順番”で並んでいます。

短く、要点だけに絞って答えていきます。

白粉の毒性はどれほど危険だったの?

当時の白粉には鉛や水銀が含まれるものが多く、現代の基準でいえば安全とは言えません。
皮膚の炎症が起きやすく、厚塗りを重ねるほど負担は増えました。
科学的知識がなかった時代だからこそ成立していた化粧です。

お歯黒って本当に臭かったの?

はい、かなりの悪臭だったと伝わっています。
鉄と酢を反応させた鉄漿(かね)を温めると強烈な酸っぱい臭いが立ちのぼり、
夫が起きる前に塗り終えていたという記録が残っています。

眉を全部抜くのはどれくらい痛かった?

痛みは相当だったはずです。
性能の良い毛抜きは珍しく、『枕草子』に「よく抜ける銀の毛抜き」が“貴重品”として登場するほど。
多くの女性が抜けにくい毛抜きで毎日のように格闘していました。

平安時代のメイクは男性にも一般的だった?

はい。白粉・引眉・お歯黒は、高位の男性貴族も普通に行っていました。
これは“美のため”というより、「身分の高さや文化的洗練」を示すユニフォームのような位置づけでした。

このメイク文化はいつまで続いたの?

明治時代まで続きました。
西洋文化が入ってきたことで「奇習」と見なされ、1870年に華族へ向けた禁止令が出され、
1873年には天皇夫妻が率先して廃止したことで一気に消えていきました。

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